ある土曜日のお昼、レストランでシャンソンコンサートが開かれている。飯田みどりさんが舞台に上がった。ピアノの調べに体をゆだね、みどりさんはひと呼吸して歌い始めた。
曲は「待って」。ピタリ、恋の歌である。
… 待って、入るのは、着替えがすむまで…
みどりさんは、大学生の長男を頭に3人の子どもがいるワーキングマザー。フルタイムで働き始めて5年目になる。「以前の私はお稽古ごと大好きママで、子どものお受験も一生懸命だったの」家事も手抜かりなし。お母さん同士のつきあいもマメにこなす、輝く専業主婦であったそうだ。
順風満帆な月日が流れて…。みどりさんに転機が訪れたのは数年前。さまざまな理由から、「私も自立をせねば!」と決意した。しかし、気づいてみれば四十代。働き口は狭かった。とりあえずパートの仕事からスタート。その後、友人の紹介でフルタイムの仕事についた。
がんばりやできっちりした性格のみどりさんは、仕事でメキメキ頭角をあらわしていった。浮き世のお約束、「やっかみ」「いじめ」もついてまわったようだ。重要書類がなくなったり、奮発して買ったブランド物のボールペンが消えたり。
でも、めげない、みどりさん。
「ケロッとしているから、よけい気にくわなかったみたいよ」と笑う。今だから笑って話すみどりさん。でも、決して心穏やかではなかっただろう。家に帰れば、むずかしい年ごろの子どもたちも待っている。生きるうえで誰もが背負う悩みや憤りに、みどりさんが無縁でなかったはずがない。
そんなとき、あるきっかけでシャンソンに出会った。「最初はなじめなかったの、独特のリズムでしょ」でも、みどりさんのモットーは、「ノーと言わない」こと。とりあえず受け入れることが、新しい自分に出会えるチャンスになる。
シャンソンもそんなふうに受け入れた。
…待って、髪の毛をとかしているの… まゆ毛も急いで描きいれるから… それから、うっすらほほ紅つけて… 自分の美しさに、だまされるまで…
シャンソンの歌い手は演技力が必要でしょう? 悲しい歌は涙を流さんばかりに顔をゆがめたり、希望の歌は大仰に手をかざしたり。「いいえ」みどりさんは、首を振る。「シャンソンを歌うと、映画のような光景が浮かぶの。何度も歌いこむと、映像がよりはっきり見えてくる。私が見えているものを、聞いてくれる人に伝えたい」みどりさんが歌うときの振りは、自己流だそうだ。「自分が表現しなければ相手につたわらない」。シャンソンで培った表現力は、仕事にもいい影響を与えることになった。みどりさんは上司に認められ、今は部下を持つ管理職だ。異例のスピード出世といえる。
…待って、唇を大きく描いたら、金粉を少し光らせてみるわ。そんなに時間はとらなかったでしょう。もうすぐ、あなたを入れてあげるわ…
ピアノの旋律に優雅な歌声がからむ。歌い手、聴き手、ともに高まる高揚感。
「まず、肯定して受け入れるとね、いろいろなことがうまく行くのよ」仕事仲間、PTA仲間、シャンソンの仲間。歌を聴きに集った人々に、みどりさんは感謝を込めて歌う。会場はあたたかい。人々は笑顔。
恋の歌が、しめくくりに入った。…いいわよ。
歌い終えたみどりさんは、にこっと微笑む。 かわいくて、ゆるぎない自分を持つ一人の女が、拍手喝采を浴びた。
【プロフィール】
会社員 大学卒業後、
一流企業の秘書室に勤務。
25歳で結婚。
27歳で出産を機に専業主婦に。
40代で一念発起して再就職を果たす。