――今回はアルパインクライマーの佐藤裕介さんにご登場いただきます。
佐藤●こんにちは、今日は山梨までありがとうございます。
――佐藤さんは2008年、インド・ガルワールヒマラヤのカランカ峰(6931m)北壁初登攀が、その年のもっとも優れたクライミングに贈られる「ピオレドール」を受賞されています。
佐藤●ありがとうございます。
――その際に印象に残っていたのですが、「山を登ることについて評価されるのは違和感がある」というような主旨のコメントをされていましたよね。
佐藤●はい、それはですね、カランカという山を登ったことは、僕にとって重要な山行のひとつで、いい山行だったと思います。ただ、その年に登った山というのは他にもあって、客観的にこの山や壁を登ったということを評価していただけるのはいいのですが、それで登山の中身がわかるかというとそうではないですよね。どういう状況だったのか、とかそういう記憶が重要だと思うんです。
――単純に「すごい風が吹いていた」とかですね。
佐藤●そうですね。それらがすべてで僕が登った山行であり、それって自己満足なのかもしれませんよね。だからそれを評価するのは……違和感というか、大変だろうなあ、と思いましたね。ただ僕ら以降は、その年のひとつを決めるのではなく、ピオレドールに値するものは複数表彰されることになりました。それは共感できることだと思います。
「アルパインがやりたくて」高校時代からの思い
――そんな佐藤さんの登山との出会いを教えてください。
佐藤●そうですね……小さいころから自然で、外で遊ぶのが好きだったんです。で、小、中学校はサッカーをやっていました。サッカーも好きだったんですが、団体競技として義務的にやるようになってきまして、あまり自分の中で面白みがなくなってきちゃったんです。
――チームスポーツは義務というか、そういう面はありますよね。
佐藤●それで高校生くらいから自分のペースで出来るスポーツというか、遊びをしたくなったんですよ。で、もともと大好きだった釣りでバス釣りや渓流釣りをしていた流れから、山登りをやってみようと思いました。
――高校時代に山岳部とかがあったのですか?
佐藤●ありました。そこに入りましたが、そのときはほとんどが山歩きでしたね。雪のない登山道を歩いていたりしました。ただ、高校のOBに連れて行ってもらって、たまにこういう人工壁(ボルダリングジム)もやっていました。
――高校生から、というクライマーさん、このコーナーで多いですね、やっぱり。
佐藤●ははは。で、そのときからもうヒマラヤでアルパインをやってみたいと思っていました。始めたころはなにもわかっていないのですが、なんか壁とかをよじ登りたいという……昔からね、木登りとか得意なんですよ(笑)。
――ははは。
佐藤●山の中でよじ登るようなことをしてみたくて。ですが高校の時は技術も経験もまだ無いわけですから登山をしていましたが、その後に壁を登るときに向けて装備を揃えたりしていましたね。
――ザックに砂袋を詰めて歩いたりしましたか?
佐藤●え? あ、高校の山岳部はそんなに本格的ではなかったので、部活としてやったりはしませんでしたが、僕の家と高校って5kmくらい離れていて、けっこう距離があるので、ザックに荷物を詰めて一山越えて通学するみたいなことはたまにしましたね。
――荷物を詰めて歩くのがいいトレーニングだと知っているのですが、それがなかなかできませんで……。
佐藤●まあそれはそうですよね(笑)。裏山を走っていたりしましたけれど、それも毎日とかではなかったですね。実はラグビー部を兼部していたのですが、ラグビー部で走っていた距離のほうが長いです(笑)。
――佐藤さん、それ充分にトレーニングしていますよ、高校時代(笑)。
佐藤●ははは、そうかもしれませんね。
――大学に進学されてからも山岳部に入られたのですか?
佐藤●最初は大学山岳部に入部しようと思っていましたが、あまり活動しいていなかったので、社会人山岳会のめっこ山岳会に入れてもらいました。そこで雪のある登山やクライミングを始めた感じです。そこからは毎週、山かクライミングに行っている生活が今に至るまで続いていますね。
――その続いている中でさまざまな偉業があるわけですが、21歳、2000年に海外に出ておられるのですよね。
佐藤●最初の海外は、会で企画したパキスタンの山で19歳の時です。2000年は、南米なんですが、アンデス山脈でアルパインクライミングを10カ月ですかね、やってました。
――それは大学や社会人山岳会の仲間とですか。
佐藤●いや、ひとりでですね。なかなか大学生時分の10カ月となりますと、仲間内よりも単独で行くことになりますね。行きたかったのもありますが。
――その後に07年にはアラスカの……
佐藤●ルース氷河ですね。こちらで3ルートの初登攀をしました。
――それもすごいのですが、続いてくるのが翌年ですよね。08年の春季に同じくアラスカで新ルートを登攀されました。
佐藤●バックスキン氷河というところのベアーツゥース……北東の壁を登りまして、続けてデナリ南壁を続けて登りました。それが史上初の継続登攀となりまして……アメリカの『CLIMBING』という雑誌から、「ゴールデン・ピトン・アワード」をいただきました。
――……すごいことですね……つまりその年、08年は佐藤さんの年だったのですね。
佐藤●え?
――ピオレドールも秋には取られているわけですから。
佐藤●あ、そういうことですか。はい、最初に言いましたが、この年はカランカだけではなく、このアラスカも大きな山行になりましたね。
――そんな偉業も、大学時代からの毎週の山かクライミングの先に到達されているのですね。
佐藤●アルパインをやりたいなあと思ったときには、まだ思いもしませんでしたけれどね。
――この話の中で、以前、赤岳鉱泉のイベントで「佐藤さんのような山行をできるようになるには、毎週毎週、山にいったり登ったりしていればいいですか?」と質問されたとき、ずいぶんシビアなお答えだったのを思い出しました(笑)。
佐藤●え、なにを言いましたっけ(笑)。
――いや、「たとえば小屋で暖まってから何時間か登りに行って、それで小屋に戻ってまた暖まる。そんなことでは毎週行っても厳冬期の黒部横断はつながりません」って。
佐藤●ああ(笑)。
――でもまあ、そりゃそうだよなと私も含めてみんな納得していました。
佐藤●ははは。まあ雪の中で生活するというのは、山小屋とは全然違いますからね。キャンプをしてみたらいいかとは思いますが……しかし、赤岳鉱泉のイベントでそれを言っちゃいけないですね、ははは。
――ははは。
佐藤●黒部の横断のような山をやるには、ということです、はい(笑)。
新春恒例・厳冬期の黒部横断行
――ちょうど黒部の横断の話が出ましたが、佐藤さんはここ数年、お正月に黒部に入ってらっしゃるのですね。
佐藤●はい、そうですね。2008年……やはり大きな年ですね(笑)。2008年のお正月に初めて長野側から富山側へ抜ける黒部横断をしました。
――冬の黒部というとやはり大雪が待ちかまえて……。
佐藤●『大雪』なんてものではないですよね(笑)。そのときは池ノ谷で雪崩にあって 1.2km ほど流され、仲間が2人埋まってしまいました。
――!
佐藤●なんとか生きて脱出しましたが、その後も三ノ窓で 5日間停滞したりしながら、剱岳の山頂を踏んで下山しましたよ。
――はあああ、よかった?。
佐藤●今年も行ってきまして、山に行く前の予定として大谷原→鹿島槍ヶ岳→十字峡→大滝尾根→仙人山→八ツ峰→剱岳と組みまして、伊藤仰二さん、岡田康さんと 3人で行ってきました。
――その場合の荷物ってどれくらいになるのですか?
佐藤●20日分での食料や燃料で……ひとり30kgですね。
――……ザックに砂袋くらいじゃ、私はいつまでたっても登れないわ(笑)。
佐藤●まあ特殊なケースですから(笑)。冬の黒部の天気は世界的に見てもかなり悪いので、その分もあります。そして天気は悪いわけですから、多少無理でも進む必要があります。いつにも増してストイックなのですが、3人で明るく楽しんでましたよ。
こちらは2013年、米国のザイオン国立公園での模様。
黒部の横断も供にした岡田康氏(右)、さらにジャンボ横山氏(中)と
――すごい人たちですよ、楽しんで私も登れるよう頑張ります。
佐藤●それで進んでいくのですが、まあやはり天気が難敵になります。あの山行では、鹿島槍ヶからの下りでホワイトアウトになったため、ロープを結んで進んでいましたが、結局牛首山で泊まることになったんです。黒部横断では、基本的に雪洞を掘って中にテントを張るんですが、積雪もそれ程無かったので、木が出てきちゃったんですね。それで掘るのに3時間ほど掛かりました。
――雪は降り続いているわけですから、かなりの重労働ですね、お休み前に。
佐藤●はい。で、そのときは翌日も天気が悪くて、雪洞の入口に 3mくらい雪が積もってしまい、これを掘り出すのにまた一苦労です(笑)。
――「世界的に見てもかなり悪い」の意味がよくわかりました(笑)。
佐藤●ははは。しかし今年は天候に恵まれませんで、その後も悩まされました。劔沢から大滝尾根に取付く予定の日には、その最初の雪が安定していなかったため、雪崩の危険が避けるためにガンドウ尾根に変更したんですよ。ですが……
――ですが?
佐藤●大滝尾根に行くのを諦めきれず、少し登ってから聞いた天気予報が好転しそうだったので、1日待って大滝尾根に行くように再度変更しました。このとき、行程の半分も来てないのにちょうど半分、残りは10日になっていました。正直、10日で残りの日程を消化できるかわからないながらも。話し合って予定通り剱方面に進むことにしたんですよ。
――10日で余裕があるルートにすることも考えましたか。
佐藤●そうですね。ただ、黒部の横断は山から受けるプレッシャーをかわしながら進んでいく、常に判断は難しいですが、それが魅力でもあります。結局それから大滝尾根を取り付いて4日で抜けて、ガンドウ尾根に合流したときは嬉しかったですね。
――佐藤さんほどの方でも嬉しい……。
佐藤●はい、それはもちろん。ヒマラヤの頂上に登ったほどの充実感があり、非常に嬉しかったですよ。
――苦闘した充実感、ですね。
佐藤●未登でも未知でも頂上でもないのですけれどね(ニッコリ)。どれだけもがいて、どれだけ満足できたか、なんですよ。 ただ……
――はい?
佐藤●その後はやっぱり天候、雪の状態が悪く、八ツ峰をまず諦めました。剱岳を目指すことを考えましたが、それも叶わず、坊主尾根経由で欅平に下山することにしました。20日の予定が16日目の欅平で終了してしまいました。
――残念です……。
佐藤●はい、ですが実のところ、4回の黒部横断でいまだに八ツ峰に取り付けていないんです。ただ、それでも常に無駄な要素は一切なく、とても大切な時間が黒部の横断では味わえます。それはピオレドールを受賞したカランカとも比較できません。
――いつか八ツ峰に取り付く佐藤さんを見たいですね。
佐藤●そのためには一緒に来てもらわないと行けませんよね(笑)。
――ええええっ。
佐藤●ははは。冬の黒部では、山から常にプレッシャーを受けながらも、何とか生き残って帰る。それがやりがいですね(ニッコリ)。
「人間って、意外としぶとい」
――ピオレドール、黒部の横断……佐藤さんにとって山やクライミングはこれからも毎週のものとして続いていくのでしょうね。
佐藤●そうですね、そうありたいです。それでいていろいろと“知って”行きたいですね。カランカの時に感じたのですが、「人間って意外としぶとい」と知りました。
――はい。
佐藤●カランカ北壁は雪と氷と岩で構成される傾斜の強い山なんですが、そこの1800mの壁を登っている途中で嵐に合ったんです。しかも壁中が雪崩ていて、降りることもできなければ登ることもできない状態。それが3日間続きました。
――みっ、3日間……(泣)
佐藤●行程として1晩目、2晩目が腰掛けビバーク。嵐にあった4晩目〜6晩目は岩小屋的に雪崩から守られているところでビバーク。幅1.2mで3人全員が右を向いて寝返りも打てずに寝ると言う状態でした。
――その間、食事とかは……?
佐藤●それが1日500kカロリー分の食事しかなかったんですよ。そんな生きるか死ぬかの3日間でしたが、そこを乗り越えたときにまず思ったのが「まだ上に行きたい」です(笑)。
パタっと倒れて死んでしまうくらいが限界だとすれば、本当の極限や限界というものはもっと先にあるんだ、とそのときに思いましたね。
――すごい……なかなか思い至らないですよ。
佐藤●いや、できれば体験しないにこしたことはないですよ(笑)。ただ、もうちょっと先へ、もうちょっと先へ、と、自分の可能性を少しずつ広げて進んでいきたいですね。本当に限界を見たら死んでしまうので(笑)、その近くまで。
――佐藤さんはそこで逞しく、ずっと山にアルパインに、邁進していくのでしょうね。
佐藤●そうですね、「意外にしぶとく」頑張ります。
――ありがとうございました。ガイドもしていただける日を楽しみにしています。
佐藤●ありがとうございます。それでは来年のお正月に黒……
――ええええっ!
佐藤●ははは(ニッコリ)。
構成:松本伸也(asobist編集部)
※このインタビューは2014年4月収録されたものであり、同年7月、世界遺産の一部である和歌山県・那智滝に対する佐藤氏らの不祥事により、当時は公開を見合わせました。その後、不祥事に対する社会的責任を果たされており、また、世界的な才能を埋もれさせておくことは本意ではないとの編集部の判断から、この度の公開となりました。佐藤氏のよりいっそうのご活躍を祈念しております。(asobist編集部)
「那智滝での事件では、私達の軽率な行為により那智滝を大切に思われている方々、また登山界の皆様にも多大なるご迷惑をおかけしました。心からお詫び申し上げます」(佐藤裕介)
【プロフィール】
佐藤裕介
1979年山梨県出身。アルパインクライマー
幼少期から自然に親しみ、高校時代よりアルパインをやりたいと思い始める。2000年の南米でのクライミング旅を皮切りに世界に旅立ち、2007年には米国アラスカ州ルース氷河で3ルート初登攀を果たす。2008年春の同アラスカ遠征でも大きな成果を上げたほか、同年秋のインド・ガルワールヒマラヤのカランカ峰(6931m)北壁初登攀が、その年のもっとも優れたクライミングに贈られる「ピオレドール賞」を受賞した。
山岳ガイドとしても活躍中。
今回はクライミング界の殊勲・ピオレドールを授賞したクライマー。 |