※前回へ
毎日トイレの掃除をしていると、たまに誰かが来ます。その日はまりちゃんが来ました。
「トイレ、おかりしてもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ使ってください」
「とてもきれいな言葉づかいですね。どなたに教わったのですか?」
「ママに。ママはね、いつもこういうの。らんぼうな言い方しては、あいての人にわるいでしょ、って」
トイレのドアの中から、まりちゃんの声が続きます。
「パパとママは、はなれてくらしているの。パパは……ほんとはやさしい人なんだけど……、おうちではなんにもしない人だったの。ママは……お店やってて……、おうちのすることもいっぱいあって、たいへんなの。
ママかわいそうなの。だからわたし、おちゃわんはこんだり、おせんたくものたたんだり、手伝ってあげてるの。
パパは……ときどきやってきて……わたしをドライブにつれていってくれるの。とおくまで……一日じゅうよ。そんなに気をつかわなくてもいいのに……」
まりちゃんが出てきました。
「あー、まにあってよかった。ありがとう」
私は、にこにこしてそう言うまりちゃんの、名札の苗字が変わっていることに気がつきました。
こうして仕事にも慣れてきて、楽しくてたまらない日が続き、またひと月ほどが経ちました。
ところが、ごんた君がある日、急に、
「おしりたれー」
と私に叫んで、逃げて行きましたが、あとから頬に涙のあとをつけて謝りに来て、謝ったすぐ後ににこにこ顔ですりよって言いました。
「おそうじ、がんばってますか?」
そして二週間ほど過ぎたころ、ごんた君がまた来て叫びました。
「おしりたれー」
でも、私は何も言えませんでした。
ごんた君は、先生に叱られて謝りに来て、にこにこしたよい子になるけど、一週間するとまた言う。そんなことをくり返すうち、日ごとに乱暴になっていき、友だちとけんかしたり、いじわるをしたりしたので、ごんた君の行く先々で騒ぎが起こりました。ごんた君の顔や手足には生傷が絶えません。まるで違う子のようになりました。
そしてある日、友だちに噛みついてしまいました。ごんた君も、傷だらけです。
掃除機をかけていると、ごんた君を迎えに来たお父さんとの話し声が、もれてきました。
「どうしたんだ、その傷は?」
「べつに……」
「男は、我慢するものだ。けんかなんかするなっ」
「だって、あいつ、わらったんだもん。おかあちゃんといたとき……」
「お前が、うれしい顔を見せるから会いに来るんだ。あの女にもう来るなと言えっ! 言わないと、保育園を変えるぞ」
「そ、そんなあ……」
ごんた君はがっかりしてうなだれ、深いため息をついてから、足を重そうに引きずりながら、
「つまんないよう……」
と、お父さんの後から、とぼとぼと帰っていきました。
それから間もないある日のお昼寝時間のことです。ごんた君といたあの女の人が、両手で顔をおおって小走りで出て行きました。
ほどなくして、ごんた君がカーテンから顔を出し、左右を見てからそっと出ると、ゆっくり歩いてきて、掃除機をかけている私の脇を通り過ぎようとしましたが、こらえきれずにしゃくりあげて走り出し、
「……あちゃーん! おかあちゃーん!」
と、泣いて追っかけて行きました。(つづく)
絵・稲葉 美也子