第二次世界大戦中、日本国内でただひとつ地上戦が行われた沖縄本島南部には、「ガマ」と呼ばれる自然洞窟がいくつもある。日本軍と住民の避難壕として使われたガマの中では、さまざまな悲劇がくり返されたという。平和学習の一環として、現在、数カ所のガマが見学できる。
大谷高子さんとは、数年前の沖縄取材中、ガマのボランティアガイドとして知りあった。たび重なるアメリカ軍の攻撃、味方同士の争い、集団自決。まっ暗なガマの中を懐中電灯の光に頼りながら、ガマで起こったことを淡々と説明していく大谷さん。
わずか30分ほどガマにいただけで息苦しくなってしまい、外に出たときはホーッと胸をなで下ろした。そして、いつかこの人に、話をじっくり聞いて見たいと思った。大仰に表現することなく、感情的にならず、戦争で起こった事実そのものをきっちり伝えようとする彼女の姿勢に、とても興味を覚えたからだ。
ふたたび沖縄を訪れる機会があり、大谷高子さんに連絡をとったら快く取材に応じてくれた。
高子さんは25歳で結婚。次々と3人の子どもに恵まれ、専業主婦として家事、育児に専念してきた。でも、「末の子が義務教育を終えたときに、私も子育てに一区切りつけよう」と決めていたという。
末の子が中学3年生のある日、沖縄県のガイド養成講座の募集を新聞で見つけて、さっそく応募。「子どもが卒業するまでに、自分なりの時間をみつけて勉強しておこうと思ったんです」。
高子さんが受講したのは、戦跡を案内する平和ガイドのコース。彼女が住む糸満市には、平和祈念資料館やさまざまな戦跡がある。でも、高子さんにとってはあまりにも身近すぎて、観光客が行く場所と思ってたそうである。
大谷さんは週一回の講座を、休むことなく熱心に受講した。 子どもの卒業式当日もフィールド講座の日と重なった。
務めていたPTA会長として答辞を読む役目があったけれど、思い悩むことなく別の人に代わってもらった。
「あなたは今日卒業だけど、私はこれからのために大切なことなの」と子どもにも了解を得たという。 こうして、高子さんは平和ガイド第一期生となったものの、ボランティアガイドが活躍できる組織自体が存在しないという事実にびっくり! さっそく、自宅のFAXと自分の携帯電話を連絡先として、事務局を立ち上げたそうだ。
ボランティアガイドをしながらも、戦跡やガマの発掘、戦争体験者の聞き取り調査など、やるべきことはつきなかった。
高子さんは、ガマに避難した人々の気持ちを少しでも知りたくて、ボランティアガイド仲間と一晩ガマに泊まったことがある。長袖のトレーナーを着ていたが、ガマの中に長時間じっとしていると、寒さが身にしみたという。
後日、そのガマに何カ月も身を潜めていた人から直接体験談を聞く機会があったとき、「寒さはどうやってしのいだのですか」と聞いたところ、「今日死ぬかもしれないという恐怖心で寒さなどは感じなかった」と答えが返ってきた。
「たかが一晩過ごしただけで、こいうことを聞いたのも、私が平和だからなんです。いくらガイドで説明しても、伝えきれないものがたくさんあると実感しました」
「私は先輩たちに教わりました。そして、先に生まれた人間として、子どもや孫たちに伝えていく義務があります。旗を振ってアピールしなくても、日常のなかで少しずつでもつないでいくことが大切だと思っています。」
高子さんはボランティアガイドを始めて、今年で10年目。たまたま受講した講習会から、人の輪がどんどん広がっていった。今は平和ガイドだけでなく、うちなーぐち(沖縄の方言)を子どもたちに正しく伝えるなど、さまざまな活動を続けている。
「きっかけは、石のようにどこにでも散らばっています。何を拾うかは自分の意志。すてきだなと思って拾った石をどうみがくかは自分次第です。それをダイヤモンドにするか、ただの石くれにしてしまうか」
そんなふうに語ってくれた大谷高子さん。
彼女の心の中には、自らみがき続けてきたダイヤモンドが輝きを放っているにちがいない。