vol.33:古瀬浩史「自然」と生きる、中年のび太


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インタープリターという言葉をご存じだろうか。ひとことで言えば「自然の案内人」。
ただ、自然のなかの木や生き物などの名前を教えるだけでなく、その場所の生態系、そこに暮らす人との関わり、歴史など、さまざまな角度から解説していく。
古瀬浩史さんは、自らインタープリターであり、インタープリターを養成するインストラクターでもある。
古瀬さんとの出会いは20年ほど前にさかのぼる。
その当時の日本では、プロのインタープリターは存在しなかった。だれも、「自然」でメシが食えるなんて思っていなかったのである。古瀬さんは大学で東京湾をフィールドに海洋生物学を専攻し、卒業後、高校の生物教師、ダイビングインストラクターなどをの仕事をしつつ、長い旅に出たりと、自分の進む道を模索していた。「自然に関わる仕事がしたい」と漠然とした思いは常にあった。
今はフリーターやニートなんて呼ばれているが、当時はモラトリアムという言葉でひとくくりにされていたなあ…(遠い目)。


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まもなくバブル時代が到来。「環境」という言葉がやたら使われだした。さまざまな企業や団体が「環境」に注目し、浮き足立った。
環境=自然 →「自然」が金になる! とあおられた人はたくさんいたはずだ。
そのころの古瀬さんはインタープリテーションを主軸に立ち上げた会社に誘われ、東京近郊にある山のビジターセンターで自然解説員として働きつつ、バブリーな世相をちょっと離れた場所から見ていた。
当時を振り返って、古瀬さんはこう話す。「たまたま『自然』でメシを食い始めたけれど、気負いはなかった…。ただ、なりたいのが例えば八百屋さんだとしても、自分が買い物に行くお店よりずっといい八百屋さんになれるという、根拠のない自信はありましたね」
その後、八丈島に派遣され、ビジターセンターで過ごした7年間、試行錯誤しながらさまざまなプログラムを実践させるうちに、地域を活性化を考えたエコツーリズム事業の手応えを感じたという。
8年後、八丈島の勤務を終え本拠地である東京の事務所に戻った古瀬さんは「さて…」と考えた。「さしあたって急務はない−−それは、ありがたいこと」ととらえ、長年あたためてきた「海辺の環境教育フォーラム」を始動させた。
山や森をフィールドした自然観察の手法はたくさんあるけれど、「海」は立ち遅れていていた。海の自然に関わる人々が集まって、さまざまな提案を分かち合い、コラボレーションをする。2001年春、そんな海のイベントが実現した。
静岡県西伊豆、石垣島、高知県室戸岬、沖縄本島など、日本各地の海辺で毎年開催されてきた海辺フォーラムは今年7回目を迎える(神奈川県三浦半島で開催)。
海に関わる人々で構成された実行委員ミーティングでさまざまな提案が飛びかうなか、古瀬さんはニコニコ楽しそう。文化祭みたいな雰囲気だ。


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古瀬さんは若いとき、ドラえもんの「のび太」そっくりだった。40代半ばの今、のび太のまま中年になった感がある。
インタプリターの講習会、エコツーリズム事業の出張など、一年の約半分を旅で過ごす。「学生のころ、『自然』と『旅』が仕事になったらと思っていました。100%ではないけれど、近いところに来ているかな」と語る。
「ところで、ASOBISTの取材なんだから、遊びが仕事になっている話だけじゃつまらないでしょ」と古瀬さんは身を乗り出した。
「僕、海が好きでしょ。でも、海に入る機会って、潜水調査とかスノーケリング講習とかほとんど仕事になってしまう。で、最近、どうも遊びが足りないと感じて…」
で、なんと最近、サーフィンを始めたそうだ。すきあらば車にサーフボードをつんで、ひとりで海へ行く。中三の息子と小六の娘は、もうお父さんと遊んでくれないそうである。
「でも、楽しいよお。まだろくに乗れもしないんだけどね」鼻水たらして、波にグチャグチャにもまれながら喜ぶ中年のび太。

そんな彼の現在の夢は、海洋教育の拠点を作ること。「生物の研究を行ったり、子どもを受け入れるプログラムがあったり、指導者を養成したり。海の環境教育の総合的機能を持つ施設をやってみたいなあ」。そんなふうに話す古瀬さんは、野心にギラギラすることなく、ホワンとしたのび太の顔で笑う。

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【プロフィール】
1961年東京生まれ。
自然教育研究センター主任研究員
ワークショップ、講演、イベント企画など、インタープリテーションのさまざまな場面で活躍中。海辺の環境教育フォーラムの発起人。

自然教育センター
http://www.ces-net.jp/

海辺の環境教育フォーラム
http://interpreter.ne.jp/umibe/