――和田さん……これまでよくご無事ですね……。
思わずのっけからこう聞いてしまった。
冒険スキーヤー・和田好正。詳しいプロフィールは上記に譲るとして、スイス・マッターホルンに始まり南極に終わるV(victory)シリーズなど、スキーとともに世界中を滑り降りてきた冒険家だ。その文字通り“轍”を追った著書『地球を滑る』(日東書院)や、公式HPでの記録を読むにつれ、「よくぞご無事で」と思わずにはいられない。単純に考えてみよう。60億人類にとって6000m級の雪山から無事に降りてこられるのもきっと一握りだが、そこでスキーを履いているさらに一握りが、目の前にいる和田好正なのだ。
そんな命がけの冒険家である。厳しく、そしてストイックな雰囲気になるかと思いきや……朗らかな笑顔で、話に笑いも交えながら、和田は自らの冒険を語ってくれたのだった。
まずは最初の質問の答えから――
和田:いや、ハハハ。でも、そうですよね。ほんっとに死んでてもおかしくないなって(笑)。あのときあの瞬間、少しでも間違えていたら……いまこの場にはいないな、って思いますよ。自分でも生きてることが奇跡に感じることがありますしね(ニッコリ)。そのなかでもいちばんヤバかったといま思うのは……“滝”ですよね。あの滝を滑ったとき。
滑る相手はなんと滝!?
冒険は、失敗したらすぐもう1回
和田の数々の冒険の中で、「いちばんヤバかった」のは山や氷河ではなく、滝なのであった。その滝は世界に名だたるナイアガラやイグアス……ではなく、北海道は層雲峡にある「銀河の滝」。とはいえ水が凍っている「氷瀑」ときたからには名だたる滝にも負けてない。ときは昭和58年8月6日だ。
和田:あのとき滝壺に落ちたとき。これは大ケガをしたとかではないんですね。もし、一歩間違えて大ケガしてしまい、再チャレンジをしなかったら……なんですよ。マッターホルンに行く前のことでしたから、ここが運命の分かれ道でしたね。
最初にチャレンジしたときに、滝に付いていたコケなんかの影響であまりにもスピードが出てしまったんですね。それでサポートの人から命綱も離れて、スキーも外れてドーンと滝壺へ落っこちゃった。そのときもしもの際に引いていたクッション……これって上から見ると“点”くらいの物なのに、奇跡的にそこに落ちたんですよ。“A型おうし座”の当日の運勢を調べたいよね。ハハハ。
で、下でカメラを持っていた父が真っ先に飛んできたんだけど、もう1回すぐ上がったんですね。これがよかったんですよ。もし、改めて別の日にとか、その日でも時間が経ったりしたら、もっと怖くなると思ったんですよ。その恐怖感を僕は動物的にわかっていたのかどうか、1時間以内にすぐもう1回やらないと、もうできなくなってしまうだろうから、スタッフにはすぐまた準備をしてもらった。でもね、さすがに全身震えているんですよ。やっぱり怖さというか、トラウマがありますからね。「今度落ちたらもう成功する確証はないな」って頭の中で思いましたが……ただね、そこで成功する云々よりも、“やり遂げる”ということなんですよ。壁を打ち破る、そのチャレンジでしたよね。次はやっと滑ってきたんですけど、それで壁を破ったことで、一歩踏み出せたことが大きかった。
……ってまあ、いま思ってもあれがいちばん怖い思い出かなあ(笑)。あれがあったから、その後の冒険に耐えられてるんだと思います。ははは。
(ちなみに……当日の六曜は「先負」。先はダメ、後はよろしいという、見事的中な日なのでした)
冒険は、前に進むことしか考えない
さて、そもそも滝を滑り降りるきっかけはなんだったのか。そこには最初の大冒険・マッターホルンに繋がるカギがある。きっかけは19歳のハンググライダー、だ。
和田:以前にハンググライダーをやったとき……初めて飛んだときにね、落ちたんです(笑)。組み立て方とかもよくなかったようなんですが、それで背骨を圧迫骨折してしまいました。先生から「あと1ミリか2ミリずれてたら半身不随だった」って言われるような感じだったんですが、なんかよくなってきたら病院の中を走ったりしてたんですよ。「二度と動けなくなるぞ!」とか、院長先生にはえらく怒られましたけどね(笑)。
走ったりしちゃうってね、「もう1回飛んでやる」ってことなんですよ。だって落ちたというのは飛んでないでしょう。それじゃ悔しくて、許されないって思ったんです。もうできないかとは思わなかったか? まっっっったく思わなかった! ひどいケガだとは思いましたけど、前に進むことしか考えませんでしたね(ニッコリ)。退院した後にちゃんと飛んで、ハンググライダーも数年続けました。
で、ケガした1年後にスキーヤーのプロテストを受けたんですよ。それも異常なんだけど(笑)。その後にヨーロッパに行って、マッターホルンへの道が始まるんですけど、そのときスキーとハンググライダーが少しだけ重なっているんです。そこで考えたのは、両方で冒険をしていたらどっちかで死ぬな、って(笑)。だから、自由に空を飛ぶこともできたんで、ハンググライダーはキッパリ止めたんです。それからは一度も飛んでませんね。一度やるとハマっちゃうタイプなんで、スキーで冒険を選んだ以上、スキーで全力投球ですよ。
冒険は、オヤジに伝わる男のロマン
和田:ヨーロッパに行った際、24歳のときでしたが、このとき入った小さな映画館で「運命を変える映画」に出会ったんですね。トニー・バレロというスキーヤーがマッターホルンの東壁を滑るシーンがメインなんですが……あ、実はこのときまだマッターホルンを滑り降りようなんて思っていなくて(笑)、興味を持ったのは別のシーンなんですよ。トレーニングで岩を滑り降りていて、転倒して血を流しているシーンがあったりしてね。「コイツはなんだ!?」って。
そう、後に滝を滑ることになるロックスキーなんです(笑)。このシーンが頭から離れなくて、日本に帰ってきてからとにかくロックスキーがやってみたくて。で、近くのスキー場でやってみたら転んで脳震盪(笑)。だからモトクロスショップに行って防具を買い込んで、どんどんやってくうちにはハマってしまったんです。で、滝を滑って富士山滑って(笑)。そのうちに……「じゃあオレでもマッターホルンに行けるんじゃないかな?」。ハハハ。
Vシリーズ最初の舞台となったマッターホルン
周りが止めなかったって? もう止められませんでしたよね(笑)。オッカさんなんかは「もうそんなの止めて公務員になりなさい」なんて言ってました。なんで公務員なんだ!?って思いますけど、オヤジが公務員だったからでしょうねえ(笑)。オヤジですか? そのときは止めろとは言いませんでしたね。「男のロマン」っていうのはやっぱりオヤジには伝わるんでしょう。口では何も言わないんですよ。でも行動がなんとなくね、男のロマンを後押ししてました(ニッコリ)。
冒険は、やっぱり怖い
ハンググライダーの墜落から映画→滝壺を経て和田が辿り着いたマッターホルン。1985年5月のことである。
和田:ヘリコプターで山頂まで行ったわけですが、スイスのヘリが拒否したこともあって国境を分けているイタリアのヘリで山頂まで行きましたね。まずはスイスのヘリでイタリアの国境まで……国境って言ってもどこにあるんだかわからないんですけれども(笑)、そこから少し歩いて、イタリアのヘリに乗り換えたうえで、山頂に飛び降りる。そう、降りるんじゃなくて3mくらいのところから飛び降りる。下の尾根は4mくらいしか幅がなくて、落ちちゃうと断崖絶壁なの(笑)。下からガイドが「来いっ」て行ってるんだけど、やっぱり怖くてね(笑)。でもまあ、そこにバーンと飛び降りて……。
で、それまではヘリが近くにいるんだけど、帰っちゃうとシーンとしているわけ。時間も朝5時半くらいだったから、東からご来光がバーンと上がってくる。ドラマチックなんですよ。スタート前、休んでいる状態だったけど、いま思うとものすごい冷静でしたね。「これ、行けるかな」と思いましたし、その光景はいまでも思い出しますよ。
ただ、いざスタートしましたら、スキーの3ターンくらいまで、もうカッチカチでしたけどね(笑)。
滑っている最中ですか? マッターホルンでは途中に90度の壁があって、ほとんど命綱に吊られている状態になったりしましてね(笑)。吊られる前にバーンって落ちていくんですが、そこでロープが戻るときに切れるんじゃないかと思って(笑)。下を見るとマッターホルンの北壁ってやつで、標高差2000mの底が見えましたよ。ハハハ。
で、その壁を終えると、ソルベイハットという山小屋がある4100m地点が、真下に見えるんですよ。そこまではロープなしで自分ひとりで行くんで、ガイドが命綱を外して「よし、行けっ」とか言うんですけどね、なかなか行けるもんじゃないですよ(笑)。斜度も60度を越えてましたし、命綱がないってのは、おわかりのとおり一歩間違うと止まらないわけですから(笑)。やっぱり怖いんですよ。でもまあ、そんなのの繰り返しで降りてくるわけですからね(笑)。
まさに「命綱に吊られている状態」
冒険は、成功するとやめられない
この世界初となるマッターホルン頂上からの滑降を終えて、和田の冒険はさらに世界を広げる。そして、未来の冒険もここで発見する。
和田:まあ、このマッターホルンをV1、1回目としてVシリーズが始まるわけですが……本当はマッターホルンでやめようと思ってたんですよ。人間って、一生に1回命を賭けて成功したら、もうやめていいと思いますよねええ。ハハハ。
そう思ってたんですけど、人間やり遂げるとコロッと変わっちゃう(笑)。もう1回くらい……と思っていたらスブズブと、ね。ハハハ。で……V5、5回を過ぎたときに、「これで半分、10回で止めよう」としました。だいたい1年半から2年に1回やってましたから、年齢的にも50歳くらいになっちゃう。それに10回まで行けるかもわからなかったですしね。ケガをする場合もあるし、冒険的にはだんだん大きくなっちゃうから、お金もかかる。南極行ったらすごいお金がかかっちゃうわけですよ(しみじみ)。だから目標として10回にしました。
で、これは僕の冒険スキーのポリシーだったんですが、「斜度へ挑戦」というのがあったんですよ。40度50度60度70度……と、はたして何度まで耐えられるか。「高さ」をテーマにすれば、「最後にはエベレスト」となるんでしょうけど、僕の場合はいかに斜度がきついところから降りてこられるか。それがひとつの挑戦だったんですね。で、僕の最高はアラスカ氷河の67度(V7・1995年)。まあ、そのときは恐怖感でなかなか動けませんでしたけどね。それでも究極の恐怖感は銀河の滝でしたけど(笑)。
それと、赤道直下(V3・1990)など、人があまり行かない、といいますか、「人があまり滑らないところ」というのもありましたよね。あ、この赤道直下のニューギニアはおもしろかったですよ。イリアンジャヤ、ジャヤ山というところで滑ったんですが、ここね、雪があるはずなんだけど、地球の温暖化もあってちょっとよくわからなかったんですよ。だから調査をやろうってことになって……飛行機から外を見たときに、晴れてたら山が見えるってことで飛行機に乗ったら、ガスが掛かって見えないのよ(笑)。別のお客さんが「あ、雪だ!」って言うから見たら、たしかに白いのが見えるけど、雪だか雲だかわからない(笑)。で、これで調査終了(笑)。もうね、このときだけはわからないまま進んでいって、最後に現場で雪を見つけたときは思わず拍手しましたよ。なかったらニューギニアでロックスキーでしたね(笑)。
冒険は、“砂”へと続く……
和田:そして2005年に南極を滑ったあとは……うん、10回やったらもうスッキリしてました(笑)。これ以上同じ冒険をやっても、自分としてはあまり意味がない気がしまして……別のことを考えました。
さきほどのニューギニアの話もそうですが、地球の温暖化って冒険のときにすごい感じてたんですよ。氷河を走ったときなんかも「おそらくこの先、ここを走ることはできないよ。これはレコード(記録)だよ」って言われたりしましたし。また、ここ最近って12月中にスキー場がオープンできなかったりしますよね。日本だけでなく、ヨーロッパの標高1000m級のスキー場も12月中はクローズが多い……。
そこで考えたのが、サンドスキーなんです。サンドスキーは未来のスキーになりえる。その可能性は大きいと思いました。
サンドスキーを始めた発想は……これもロックスキーがあったからなんです。ロックスキーは決して楽しいものじゃないっていうのは僕自身よく覚えてますけど(笑)、サンドスキーは楽しい。そう確信してました。
和田好正、ナミブ砂漠を行く
それというのは南極を目指す際に、トレーニングで南米のチリに入ったんですね。そこでパリナコータという山を滑ろうと思ったら、天候が悪化して雪がカチンカチンのアイス状になってしまった。滑られる状態じゃないから、6000m級の山を登ったトレーニングと割り切って戻ったんです。そうなると取材陣はスキーの映像を撮れていないじゃないですか。なので、周りを見渡した僕が「いや、明日は滑るよ」って指したのがロックスキーの場所だったんですね。で、そこに砂山もあったので、ロックスキーの撮影のあとにサンドスキーもやってみたら……これがおもしろかった。履いていたスキーではあまり滑っていかなかったことで、普及のポイントも滑る板だと確信しましたね。
そしていまは、サンドスキーの開発を本格的にやってみたいなと思っています。試乗会などもやってますが、参加したみなさんもおもしろさを感じてくれている。最初はマユツバだった人も、みんな堪能してくれましたね。
ただ、サンドスキーの現状は、まだスタート地点です。勝負はこれからでして、用具でワックスを開発してくれる会社はあるんですが、やっぱりスキー板を開発してくれる会社もほしい。ドバイなんかだと砂漠でサンドスキーをやってたりするんですが、普通のスキー板を使っています。もし日本で開発が進めば……うん、どこかやってほしい。日本の技術をなんとか活かしてほしいですね。
今後も開発などの活動をしながら、来年の秋にはサハラをサンドスキーで走りたいと思っています。それが僕のいまの、そして未来の“冒険”ですね(ニッコリ)。
……と、ここで話を終えるつもりだったが、これを読んでいる様々な“冒険家”――子供からお年寄りまで本当の冒険家も、ニュアンスとしての冒険家も含めて――へ、笑顔の大冒険家・和田好正から最後にもらったひとことを残しておこう。
――和田さん、冒険とは?
和田:諦めないこと、ですよ(ニッコリ)。
(文中敬称略)
【プロフィール】
冒険スキーヤー
昭和29年札幌市生まれ。21歳からプロスキーヤーとしてレース参戦するかたわら、冒険スキーに興味を持つ。1985年(昭和60年)、スイス・マッターホルン山頂から世界初の完全滑降に成功後、スキーとともに世界各地を冒険するV(victory)シリーズをスタート。台湾から南極までを股にかけ、2005年(平成17年)に南極大陸最高峰であるビンソンマシフを制覇し、V10(10カ所)を達成した。
冒険家として新聞・雑誌などでもおなじみだが、今年は『笑っていいとも!』(フジテレビ系)にも登場した。
著書:『地球を滑る』(日東書院)
公式HP:http://www2u.biglobe.ne.jp/~wadapro/IE/main/index.html
公式ブログ:http://wadapro.at.webry.info/