vol.55:山を愛し、山に愛されたスーパー女医・今井道子

ヨーロッパ・アルプス山脈に、マッターホルン、アイガー、グランドジョラスという4000m級の山がある。三山には三大北壁と呼ばる1000m以上の岸壁がそびえ立ち、その存在はクライマー達のあこがれになっている。そんな三大北壁を、女性として世界で初めて制覇したのが今井(高橋)道子さんである。1967年から71年にかけて、立て続けにチャレンジし、見事に偉業を達成。その後もエベレストを含め、多数の遠征を行なっている。モデルにした山岳小説もある半ば伝説の人、それが今井さんなのである。

両親が予防医学的に自然の中に連れ出した

興味津々なのは、偉業に至るまでの最初の一歩。山にはどんなきっかけで登るようになったのだろうか。
「夏休みや冬休みのような長期休暇と週末は、自然の中に入って行っていました。晴れていれば、自然の中にいるというのが当たり前のことでした。当時は子供だから、どの家庭も同じだと思っていましたね。海や川と同じように山にも連れて行かれました。東京に住んでいたので、箱根の金時山のような近いところに登っていて、大学に入ったらためらいもなく山岳部に入りました」


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インターンを終えて旅立ったマッターホルン

休日にアウトドアへ出かける家庭は多いが、聞いてみると今井さんの両親はレベルが違う。スキーをするにしても、冬山登山で山の上まで行ってから滑るようなことを子供のことから体験しているのだ。これは、自然界の中で健康を作るという、予防医学的な見地からの子育てだったそうだ。父親の出身が群馬県だったので、出かけるのは海よりは山。蓼科のセカンドハウスにいるときは、蓼科山にひとりで行ったり、霧ヶ峰に連れて行かれた。親戚の獣医が牧場を持っており、馬にまたがって斜面を走らせたりしていたそうだ。
自然界に行く目的が遊びではなく健康だったので、何をやってもいいという。
「子供のころは健康のためなんて思っていなかった。アクティビティ(行動、活動。特にリゾート地での活動を指す場合もある)はアクティビティとして面白かったですね。全部自分でやることによって、自分自身が発達していく。だから、やろうと思えば、だいたいのことができて、自分にはできないという感覚はありませんでした」
自分への信頼と強固な意志の力。両親の目論見は見事当たったと言えるだろう。それでも、今井さんが大学で山岳部に入ったときには、両親が驚いたとか。
「私が山岳部に入ったときに、僕は君に山登りを教えたつもりはない、と父親に言われました」
アクティビティの一環だったとはいえ、今井さんは山に興味を持っていた。
「大学の入学式が終わって各クラブのブースが並んでいたとき、山岳部のブースにいる先輩が日向臭い浅黒い顔をしていたんです。『お、ここだ』、自然が呼んでいると、即入部しました」

山岳家・加藤滝男さんとの出会い

東京女子医科大学なので、部員は全員女性。しかも医学部は勉強が忙しく、実験もたくさんある。1カ月に1回くらいしか出かけられず、山とは言ってもハイキングに行くようなところだったようだ。しかし、不満だったかという問いに、今井さんは首を振る。


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世界最高峰・チョモランマにて

「山には行っていましたが、山のグレードを上げようとかは考えていませんでした。山に登れればよかったので、不満とかはなかったですね」
文系の大学には日本山岳会の学生部があり、彼らは年間100日は山に入っていた。もちろん、今井さんにはそれはできない。しかし、5年生の時に今井さんがリーダーになって、部員みんなで登る山のグレードを少し上げようと考えた。その際、3000m級の峰に登頂するには、岩稜帯・岩尾根をよじ登る必要がある。そこで、ガイドを雇い、岩登りを教わった。
このときのガイドが、加藤滝男さん。アイガー北壁をひとりで登った経歴を持つ、ばりばりの登山家だ。
「後で聞いたんですけど、初めは医学部のお嬢さまたちが、ちょっと岩登りってやってみたいかな、と依頼してきたんだろうと思ったそうです。ところが、初回からものすごい勢いで食いついて、少し失敗してもすぐにはやめない。医者になろうという人たちだから、やるときの気迫はあるわけですよ。あわてて、加藤さんもヨーロッパの最新技術を勉強しながら教えていたそうです。私も知らなかったんですけど、最新技術をいっぱい教わりましたね」
小さいころから岩登りをしている今井さんだったが、専門家に教えてもらうことでクライミングにはまってしまう。そこで、加藤さんの後輩ふたりとともにジャパンエキスパートクライマーズクラブ(JECC)を立ち上げた。加藤さんを会長に呼び込むと、彼を慕ってみんな集まってくる。今井さんは、大学の山岳部とは別に、JECCでも岩登りを行なっていた。


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71年、グランドジョラス山頂にて
高橋和之さんと結婚式

「岩登りに関しては最初から最先端を行っていたので、学び終わったら次は開発ですよね。コップ状岩壁の連続登攀(とうはん)をしたり、谷川岳の烏帽子奥壁ダイレクトルートを初登攀しました。それでも、日本の山が小さいのは知っていました。日本は200〜300m登ると終わってしまいますが、ヨーロッパの山はひと山の岸壁が1000m以上あるんです」

インターンが終わったら何としてもマッターホルンへ

66年に大学を卒業すると、インターンが1年あり、その後入局するのが普通だ。しかし今井さんは、1年間はあまり山にも行かずに医師修行に励んだが、インターンが終わったら入局せずにヨーロッパへ向かう。入局したら、本格的に山に行くチャンスがほとんどなくなってしまうからだ。
しかし、当時の日本人は、今のように気軽にパスポートを発行してもらうことはできなかった。対外的に日本の文化を伝えたり、海外の新しい技術を身に付けてくるといった、学術的な目的が必要だったのだ。
「私たちはマッターホルンに登ろうと思っていたので、困ってしまった。そこで、せっかく医者なんだから、『高所登山時における人体の生理学変化の研究』と称した男女比のデータを取ろうと思い立ちました。そのころ、男女比のデータが学会になかったので。それで、自衛隊の航空医学実験隊の先生にお願いして、低圧室で実験したり、いろいろ準備をしました」
そして67年7月、女性パーティーとしては初めてマッターホルンの北壁登攀に成功する。実験のために近くの他の山も計画に入っていたが、それらもすべて登攀達成(すごい!)。大学の教授に「出かけるだけで80%、無事に帰ってきて100%のところ、計画した山を全部登ったのは120%だ」と褒められたのも当然だろう。実験ももちろん成功。そもそも4000m以上での女性に関するデータは存在もしなかったので、とても貴重な実験となった。
「当時は、体力的にも高所に関しても、男は強い、女は弱いと思われていましたが、高所に関して男女差はほとんど認められませんでした。むしろ、個人差のほうが大きいですね」
女性パーティーの初登攀ということに驚いていると、
「マッターホルンに女性同士で登るのが世界初なのは知っていましたが、初登攀だから登ったとか、そうじゃなかったらやめていたとかではないんです。女だけでもできるんだ、ということを証明する気持ちのほうが強かったですね。当時は、『男性が女性についてこい』というスタイルでした。私は中学、高校、大学と女子だけの環境だったので、男の人たちがいちいち手を出してくるのはうざったかった。自分が自然と直に触れあおうと思うと、男性のナイト精神は邪魔でしたね。自分で責任をもってやったものでは怪我とかしないけど、人に言われたり、人にサポートしてもらうと、自分の考えと違って、うまくいかないことが多いです」


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実は、この登攀にはカメラマンが同行している。当時はマスコミが同行していないと、電話をする場合、申し込んでから6時間以上待たされるような状態だった。ホットラインを使いたかった今井さんは朝日新聞に頼んで、テレビ朝日が同行することになったのだ。撮影はフリー山岳カメラマンの奥山(章)さんで、彼をサポートするのが加藤滝夫さん。それで両パーティーが平行に登ったのだ。
「向こうも上るのに必死だったので、壁の中では6回しかカメラを出してないんですけどね」と笑う。
しかし、マスコミには加藤と奥山に連れられたパーティーという表現が使われて、腹立たしく思ったそうだ。
「でも、『事実と違うのだから、まぁいいや』と考えました。本当に山をやっている人間なら、その部分はわかるはず。ちまたの人たちの言うことは気にしませんでした。女性達でできるんだってことが証明できれば問題なかったんです」
社会的なステータスを狙ったのではなく、自分がどこまでできるのかを追求しようとする姿勢だったのだ。
そして69年8月にアイガー北壁、71年7月にグランドジョラス北壁を登攀し、女性としてはじめて三大北壁を制覇する。最後のグランドジョラスの山頂では、同じく登山家の高橋和之さんと結婚式を挙げている。今井さんは「ようは遊んでいるんですよ」と、さらっと語っていたが、究極の時と場所で結婚式を挙げたのは、きっとすばらしい体験だったに違いない。


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医師として手術にも山同様に立ち向かう

一般の人たちを自然の中に連れ出すというライフワーク

「泌尿器科を選んだのは、父親が腎臓結核で片腎だったので、泌尿器科医をやっていたほうが何かの役には立つと思いました。また、うちの母方の祖父が前立腺肥大症で寝たきりになっていました。泌尿器科の病気の人が多かったんですね」
医者としても持ち前のバイタリティーを発揮し、74年には前立腺肥大症における研究で賞を取った。そんな忙しい最中にも、仕事の合間を縫ってネパールのヒマラヤやエベレストに遠征しているのには恐れ入る。
「教授に『出たのものと死んだものはあてにならんと』と言われつつも行きましたよ。もちろん、人が少ない医局でしたから、1〜2週間当直が続くのは当たり前で、日本にいるときはちゃんとやってましたけど」
この遠征は一般の人たちを連れて、今井さんが旅行講師を務めたり、医師として同行したりしている。自然のすばらしさを、他の人たちにも広めるのが目的だ。
「マッターホルンに行ったときに、向こうの人たちはどういう思考でアルプスへ向かっているんだろうと思ったら、登山者がすごく少なかったんです。むしろ、森とか高山植物の咲き乱れる草原とかで遊んでいました。それを見て、自然の中でのアクティビティを広めるというライフワークができたんです」
予防医学や健康維持、脳を衰えさせないという医学的なことを考えると、自然の中でのアクティビティは、岩登りだけではなく、一般の人ができることにある——今井さんはそう考えつつ、自然が健康によいということを科学的に示すデータを探していた。広く啓蒙するには、自分の体験だけでは足りないと考えたのだ。
「山に関する医学的なデータは、あまりないんですよ。それで、自然が人に与える影響を研究してくれってずっと言っていて、04年に林野庁と厚生労働省が音頭を取って、産学官全体で森林セラピー研究会を立ち上げました」
このほか、今井さんはクラブ・ル・ベルソーというサークルも運営している。一般の方達を集めて、自然の中に連れて行っているのだ。設立のきっかけは、ヨーロッパアルプスにガイドとして行ったこと。
「皆さんをヨーロッパにお連れするようになりましたが、彼らの言葉を聞いていると怖くなったんです。ガイドがいて登れたのに、自分だけの力で登ったような気になっているんです。そうすると、スキルに見合っていない山に行くようになって、危険だなと感じました。それで、クラブを作って、山仲間を集めてガイドしてもらうような形にしたんです」
ガイドの話から、09年7月に起きた大雪山系トムラウシ山での事故に話題が移ると、今井さんの表情が曇る。


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「トムラウシの遭難をガイドが悪かったって言うのは簡単だけど、実際はそうではないと思います。気象の凶暴化が読み切れていないんです。私たちでも集中豪雨とかに会ったりします。私は観天望気(自然現象や生物の行動の様子などから天気を予想すること)が強いので、降る前に山を下りることができますが、他の人では気がつかないこともあります。昔と気象が変わったんです。さらに、コアな部分の気象も変わってきています。また、商業ツアーの場合、ガイドは雇われている身です。会社のコストパフォーマンスも合うようにしなければいけません。本当は小屋で待ったり、1泊しようと思っても、帰りの飛行機は決まってることが多いわけです。すると、自然と対峙するというスタンスがとれません。装備に関しても、持って来てくださいと言っても、買えないと言われてしまいます。迎合してはいけない部分で妥協しなければいけないという社会的な問題がいっぱいあるんです。これらを解決するのは難しいですよね」
ガイドには頼ってもいいし、判断に従うのもいい。しかし、ガイドに頼りっぱなしになって、連れて行ってもらえると考えてはいけない。「自分は自分なりの安全管理の心構えが必要だ」とは今井さんの弁だ。

今井さんの活動はそれだけにとどまらない。
「いろんな形で、自然の中へみんなを出そうとトライしています。個人的には、森林マラソンを含むアクティビティを13年前から行っています。走れない人は歩く。歩けない人は炭焼き体験とか。森林にある環境を享受すればいいんです」
一貫して、自然の中へ出よう、というスタイルを持っている。
今年で67歳を迎えた今井さんは、元気そのもので、ずっと若く見える。それも、小さい頃から過ごしてきた自然の恩恵なのだろう。

今度の週末は、山にハイキングしに行こうかと思った。


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【プロフィール】
登山家
女性初のアルプス三大北壁登攀を達成
株式会社ル・ベルソー 代表取締役
医学博士