vol.56:飽くなき冒険を続けるスキーヤー・三浦雄一郎

世界7大陸最高峰にスキーを担いで登り、滑り降りてきた三浦雄一郎氏。70歳と75歳のときに世界最高峰・エベレストに親子登頂した大偉業をご存知の方も多いだろう。父親の三浦敬三氏(故人)も世界最高齢の冒険スキーヤーで、次男の三浦豪太氏は元オリンピックの代表選手。そんな生粋の冒険家であり、冒険家一族だ。

中学受験に失敗した落ちこぼれが、山のリーダーに

最高峰や最高速へのチャレンジ精神は、どこで培われたのだろうか。子供のころの話を聞いてみた。
「僕のオヤジは公務員(敬三氏は営林局に51歳まで勤務)ですから、小学校のころは2〜3年おきに転校していました。まったく、“風の又三郎”に近い転校生で。身体も丈夫ではなく、休みがちだったこともあって、中学校の試験を受けたら落第してしまったんです。ちょうど終戦の年ですね。それで1年間ぶらぶらして、岩手の山奥で遊んでいるうちに戦争が終わって、助かったという感じです」


(6)三浦雄一郎&家族--(2).jpg
三浦“冒険家”ファミリー

笑いながらさらっと言うが、歴史を感じる少年時代のヒトコマである。スキーは小学校のころから始めた。「なんとか息子を丈夫に」という父の願いだったかもしれない。当時、雄一郎氏の父親である敬三氏は、営林局に勤めつつすでにプロスキーヤー、プロ写真家として活躍中。その後、99歳でモンブランを滑ったり、101歳の4月8日までスキーを滑っていた「雪のスーパーマン」だ。

その敬三氏が東北大学山岳部のスキーコーチを頼まれて、ある冬の合宿に小学校4年生の雄一郎氏を連れて行った。雄一郎氏のスキーの腕前はすでに相当なレベルで、父の教え子である大学生たちをさしおいて、その先頭を滑っていたとか。そのときには山形から仙台に山越えするなど、小学生にあるまじき登山の経験も積んでいる。父の目論見は見事にあたり、立派な?ワンパクへと変貌をとげたというわけだ。

その後、家族で東京に出てきて、東京都世田谷区にある東京府立第十二中学校(その後の東京都立千歳高等学校。今年モンブランに登る、あそびすとアラカン編集長の先輩となるのも縁か)に通うことになる。東京は焼け野原だったそうだ。
「東京に来ても、日本アルプスや穂高、槍ヶ岳に連れていかれて登っていました。ダメだと言われたら、連れて行くって言うまで木に登って降りませんでしたね」
相当やんちゃだ。中学校1〜2年の夏休みや冬休みになると、もちろん父親に付いて行くが、普段もおとなしくはしていない。クラスの仲間を4〜5人誘って、日曜日には丹沢に行ったりしていた。とはいえ、ある日迷子(遭難である)になって、終電が出た後に駅に付いて大騒ぎになったこともある。中学校のころからすでに、山のリーダーだったのだ。

「大学に行かなくてもいい」と言う母と、憲兵に楯突く父親

雄一郎氏の話には、ご両親のエピソードがあちこちに出てくる。敬愛し、大きな影響を受けているのがわかる。
「母は呑気な母親でしたね。僕が中学校を落第してうろうろしてたら『あんた中学校を1回や2回落第したくらいで、なんでそんなにくよくよしてんの』って言うのですよ。『あんたのじいさんは、1回落第したから、4年浪人だよ』と。当時、祖父は国会議員をやってたもんですからね。ああ、あんな偉いじいさんでもそうかと。高校時代は山登りに飛び回っていましたが、ときどき勉強していると、『あんた、何そんなくよくよして勉強してんの』と母親が言うんです。『大学なんて行かなくていいんじゃない、歌手だって俳優だって、なんだってなれるんだから。大学だけが人生じゃない』って。僕は音痴だし、俳優になるには足が短いし。やっぱり勉強かな、って思った。人生にはいろんな道があるんだと教えてくれましたね」


oth0806220722000-p7.jpg

母は大学に行かないで俳優になれと言ったが、意に反して?息子は北大の獣医学部に入った。すごい母だ。母もすごいが父もすごい。

「僕の親父は無口だけれど、へそ曲がりなところがありました。戦時中、農場の場長をやっていたころ、観劇団を呼んでオペラとか音楽を周りに聞かせてたんです。それに当時の憲兵が目を付けて、けしからんとやってきました。拉致されそうになったんですが、親父は『観劇団でやっているのはプッチーニやモーツァルトで、イタリアとオーストリアの音楽。同盟国の音楽を聞かせて何が悪い。今教えている青年たちはこれから満州に行く。海外に行く日本の青年が鉄砲と鍬しかしらないのは寂しい。世界にはこういう音楽もあるんだし、好きになってほしい』と言ったんです。そうしたら、憲兵はわかったようなわかんないような顔をして帰りましたよ。そのころは、憲兵に楯突くなんて、考えられない時代です」

大学の教授を目指すもスキーの世界に戻る


152850_c450_03.jpg

「獣医をえらんだのはね、成績が悪くて医学部に入れなかったっていうのもあるんだけど、獣医学部は実験が終われば焼肉ができる。焼酎が飲める(笑)。学生時代から焼肉食べ放題、焼酎飲み放題でしたよ」と笑う。
北大に入るなり、日本でもっとも古い歴史を持つスキー部へ。学生選手権や日本選手権、地元の大会など、冬は毎週のようにスキーの大会に出ていたという。夏は夏で、山岳部の中でも前衛的な仲間と山登りや岩登りに行っていた。ロッククライミングも頻繁に行っていたが、
「山岳部の連中は午前中登ったら帰るんですけど、僕はそれから海へ潜って、あわびやサザエや魚を取って、背負って帰る」

学生レベルを超えた技量と体力の持ち主だったのだ。大学を卒業してから、しばらく研究室に所属して動物生理学や薬理学を研究し、ゆくゆくは教授になろうかと考えていたが、「やっぱりスキーが面白い」と思い立った。しかし、一般の人とはレベルが違う。
「まだ、今からならスキーで世界一になれると錯覚を起こして(笑)」

氷河の神風、世界を駆け巡って活躍する

1961年、雄一郎氏は初めて海外の大会にチャレンジ。アメリカの世界プロスキー選手権で、世界ランキング8位に入るという結果を叩き出す。続けて32歳のとき、イタリアの大会で“キロメーターランセ時速172km”の世界新記録を樹立する。キロメーターランセとは今で言うところのスピードスキーで、急勾配の斜面を滑って、速度を競う競技だ。記録もすごいのだが、そのチャレンジ中に3回も転んでいる。1度でも大怪我に直結する危険な競技だが、雄一郎氏は転ぶ度に記録を伸ばした。そこで、ヨーロッパの人たちはあきれ果てて「氷河の神風」などと呼んだ。
「僕のスキーは基本的に山岳スキーですよ。日本アルプスの立山に行って滑ったり、八甲田や南極に行ったり。リフトのない自然の山を滑るのが好きですね。自然の中で、誰も滑ったことのない斜面を滑るっていうのは最高ですよ」
冬山登山をするだけでも困難なうえ危険なのに、それは単なる準備段階。雄一郎氏は、登ったらスキーで降りてくるのだ。34歳のころには、富士山の頂上から直滑降する。時速160kmも出るので、止まるときにはパラシュートが必要だ。その後、7大陸最高峰からの滑降を達成する。そこにはもちろんエベレストも含まれており、70年のサウスコル8000m地点からのスキー滑降はギネス認定の世界記録だ。その記録映画『THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST』はアカデミー賞を受賞している。
そのレベルになると、スキーで転ぶことはないのだろうか?
「しょっちゅう転んでましたよ」と雄一郎氏は豪快に笑う。
「膝を脱臼したり、アキレス腱切ったり、腰折ったり。これは、職業病でしょうがない。命があるだけ、もうけもの」

家族で世界の最高峰にアタックする


01.jpg
「誰も滑ってない斜面を滑るのって最高ですよ」

雄一郎氏は息子や娘が大きくなるにつれ、敬三氏と同様、山に連れて行った。幼稚園になったら富士山に登るというから驚きだ。今は孫がいるのだが、幼稚園なのに2度も富士山の登頂を果たしている。敬三氏と雄一郎氏、そして息子たちと親子3代で、アコンカグアやキリマンジャロの登頂とスキー滑降を行なっている。まさに偉業。

そして2003年、次男の豪太氏とともにエベレストの登頂にチャレンジする。このとき、70歳と233日。
「本当は60歳くらいで登ろうと思っていたんです。でも、60歳の時にHNKの仕事でエベレストのベースキャンプに行ったら、高山病でノビちゃって。65歳の時、今決心しないと一生エベレストに登れないと考えてトレーニングを始めたんです。当時はメタボになってましてね。血圧も190で、狭心症とか全部あって。でもどうせ死ぬ前に、死ぬようなことをやってみようということです」

体調が悪く、最初は500mの山を登れなかったというが、毎日少しずつ歩いた。両足に1kgずつの重りを付け、背中にはザックを背負う。半年のトレーニングの後、やっと富士山に登れるようになる。週3回、ひたすら歩く。2年目は3kgずつ。その後は4kgずつ。背中には15kgのザックだ。そして、5年後、70歳にして、エベレストの親子登頂を果たす。
綿密な準備と計画、膨大な経験に裏打ちされたチャレンジだったものの、「エベレストは生きるか死ぬか、どっちかですね」と雄一郎氏。
しかし、このとき頂上は曇っていた。

そして、驚きの再チャレンジ。「晴れたエベレストの頂上が見てみたかった」という、信じられないほど贅沢な、そして困難な願い。雄一郎氏はトレーニングを続行した。その間、心臓の手術を2回行なった。

2008年5月26日。2度目のエベレストの山頂は、綺麗に晴れていた。
「運良く登れましたね。普通の60〜70歳の健康体なら、もっと楽に行けたと思うんですけどね」
なんというチャレンジ精神なのだろう。
「いやいや、なんとかなる精神ですよ」と笑った。

子供はできるだけ学校には行かせない

雄一郎氏は、子供の育て方や家庭に関する著書を多数出している。聞いてみると、非常にユニークな考えである。
「僕自体が落ちこぼれで不登校だったり、中学校も行けなかったりした。そこからどう立ち直ったのかも含めて、本に書いてます。僕は、自分らの子供を学校に行かせない、という方針を取ったりしました。1年の半分行けば卒業できるなら、半分しか行かせないとか。その分だけ、山登ったり、海へ行ったりした方がいいと思うんです」
驚愕の子育て論である。
一方、長女と長男は小学校を卒業したらアメリカへ留学させている。ただ、次男の豪太氏はお金が続かないので、日本で育てようと思っていた。すると、「僕だけどうして日本なの?」とねだられたことで、雄一郎氏は条件を出した。日本でスキーのトップクラスになったら、行ってもいいと。目的は、長男と長女と同じで、修行してオリンピックに出ることだった。


KICX0537_03.jpg
オリンピックのモーグル解説でもおなじみの
豪太氏(左)と

「日本一になるなら行けるの?」と小さな豪太くん。そうしたら必死に練習し、中学校1年生で大人たちによる日本選手権で5位に入った。続く夏のオーストラリアの世界大会でも5位に入った。そこで「お父さん、僕も行く資格あるでしょう」と。
「しょうがないから行かせたら、オリンピックに2回出ました」と雄一郎氏の顔が嬉しそうにほころぶ。
「本当は向こうの大学を卒業して、『ホワイトハウスに行かないか』と誘われていたんです。ホワイトハウスにいるトレーナーのアシスタントをやらないかと。そのころ、僕はちょうどエベレストに行こうとしてました。豪太は悩んだみたいだけど、やっぱりエベレストに登りたいと言うことで、日本へ戻ってきたんです」

もちろん80歳でエベレスト登頂を目指す

雄一郎氏は09年の最初に大腿骨を骨折している。その時は、毎日鮭の頭を1個ずつ圧力釜で煮込んで食べた。それにヨーグルトや果物など、病院食はそっちのけ。そのおかげで順調に回復したようだが、リハビリ開始時は両足で立てなかったという。

「去年(08年)エベレスト登りましたからね。今年(09年)は休養の年と思っていたんですよ。そうしたら、頼みもしないのに大怪我して、たっぷり休養。来年からまた始まるんですけど」

いったい何が始まるのか?
「『80歳のエベレスト』ですね。2013年に。ほぼ同じメンバーで行こうと思っています」
取材当日、雄一郎氏は片足に7kgの重りを付けてひょいひょい歩いていた。トレーニングで1kgの重りは付けたことがあるが、7kgは想像だにできない。御年77歳、まさにスーパーマンだ。

雄一郎氏は、6年前に自前の低酸素室も作っている。エベレストにチャレンジするトレーニングで利用するためだ。もうひとつの理由は、順天堂大学の医学部に行っている豪太氏が、実験に利用しているとか。

「世界の長寿村は、標高が1500mから2000mのところに多くあります。ちょっとした低酸素というストレスがかえって健康長寿に役に立つ。低酸素で、アンチエイジング。今、遺伝子レベルで実験中なんですよ」
実験のテーマは、低酸素が人間に与える影響のプラスとマイナス。ヒマラヤに登ったチームと、東京で酒ばかり飲んでたチームに分けて、4000mの状態にした低酸素室に入る。その前後で採血し、調べているのだ。


yanagiya05_03.jpg

「自分のトレーニングで始めたのが、アンチエイジングにも役立つという結果になりました。高齢者の場合は、酸素が少ないところでストレスがあったほうが、若返るんですよ。個人で持っているのは、世界でここだけですが、だんだん人気が出てきました」
有料で一般の人達も利用できるので、アコンカグアに行きたい中高年の方が来たりしている。

「4〜5年したら、1週間に1回は低酸素の状態になって、ホルモンを出して健康になろう、というふうになるかもしれません」と雄一郎氏。
何事にもアグレッシブで、豪快に見えつつ、しっかりとした準備を怠らない。

80歳、3回目のエベレスト登頂。きっと成功するに違いない。


VIVA56_prof.jpg

【プロフィール】
プロスキーヤー

1932年10月12日 青森県生まれ
1964年7月 イタリアで開催されたキロメーターランセで新記録を樹立
1970年5月 エベレストのサウスコル8000m地点から滑降し、
ギネスブックに掲載
2003年5月22日 エベレストに70歳7か月で登頂。ギネスブックに掲載
1992年4月 クラーク記念国際高等学校の校長に就任
2008年5月26日 75歳でエベレストに再登頂

MIURA DOLPHINS
http://www.snowdolphins.com/