「九段界隈 桜みち」という、1年に1度、桜が咲き乱れる季節に発行される本がある。千鳥ヶ淵の桜に魅せられて、お祭り気分が大好きで、とうとう本まで出してしまったのが國分紘子さん。國分さんの事務所がある九段界隈と皇居周辺の桜にちなんだ歴史やレストラン情報、マップなどを紹介している情報誌なのだ。
最初は「ここは牛込、神楽坂」というタウン誌を発行していた故:立壁正子さんと、神楽坂の遠出号を作ろうという話から始まった。
ある日、千代田区役所の相談窓口に情報収集に訪れた立壁さんの応対に当たったのが新堀栄一さん。聞けば新堀さんは千鳥ヶ淵の桜を植えた人だった。これは運命的な出会い?なのだ。千代田区の桜を知り尽くしている新堀さんは、創刊号からの強い味方になってくれた。
以後、運命的な出会いは続く。明治31年英国駐日公使だったアーネスト・サトウの指示で植えられたイギリス大使館の桜。その記事を読んだアーネスト・サトウの孫、武田さんからの連絡もあった。いろいろな情報が入ってきた。そして第4号では、千代田区役所時代、新堀さんの部下だった俳優の役所広司さんと新堀さんの対談も実現した。次々と広がる運命の出会いに押されて第10号まで来てしまった。
数々の新聞やテレビにも紹介され、「九段界隈 桜みち」の発行を楽しみにしている読者も多い。しかし、採算がとれないという現実も常につきまとう。
「だけどね、次はいつ出るの。やめないでねって言われると、えーい出しちゃえ、なんとかなるさって思ってしまうの」
運命の出会いはまだまだある。千鳥ヶ淵を見下ろす絶景の立地にあった、知る人ぞ知るフェヤーモントホテルの支配人は偶然にも同級生だった手塚さん。彼が最も桜の美しい時期に押さえてくれたホテルの部屋での出版パーティー。訪れる人々は皆歓声をあげる。ライトアップされた夜桜は幻想的で夢の世界だ。そのフェヤーモントホテルも、今は億ションになってしまい、勝ち組の城に代わってしまった。残念無念である。
國分さんが大学を卒業したのは、まだ日本の企業が四年制大学卒の女性を欲しがらない時代。就職も決まらず、仕方なく大学院に行ったが、その後、全盛期を迎える広告業界にめでたく就職。花形産業に身を置き、原宿をベースに遊びまくる日々だった。が、ある日突然、旅に出ようと決める。貯金など5万円きりなかったけど、決行することにする。するとなぜか会社が3ヶ月の休みをくれ、ボーナスも出してくれた。実にラッキー。
「横浜からナホトカまでは船。船代だけで20万円もかかる時代だったのよ。ナホトカからハバロフスクまでは列車、そこから飛行機でヨーロッパに入ったの。安宿に泊まってね、そう、バックパッカーよ」
その後も國分さんの行き当たりばったり人生は続く。会社を辞めてこれで終わりかと思うと、仕事が入ってきて、いつの間にかフリーのコピーライターになっていた。その後、「女性の生活研究室」を設立。製品開発から広告企画制作まで、女性の声を企業に生かす仕事に取り組む。そして1988年、九段に「國分生活研究室」を立ち上げる。
「わたしは計算ができないの」とは言うが、立派に華のある人生を送っているではないか。凡人にはなかなか真似のできない人生だ。「宵越しの金はもたねえ」とは江戸っ子の喩えだが、「宵越しの金はもてねえ」というのが横須賀っ子の國分さん。「貯金なんかできないわよ、貯金なんか」住いのある谷中には若い友人がわんさといて、夜な夜な谷中で楽しい夜を過ごす。
「酒のつまみに仕事をしてるの。悩み事は終わりがないけど、仕事は終わりがあるからいい。ストレスがかかってもできるのは書くことだけね。大恋愛?それはこれからよ」
自由に、そして奔放に。VIVA ASOBIST! バンザイ!あそびすと。
でも、よく転んで骨折。大恋愛のためにも骨折には気をつけてくださいね。
【プロフィール】
早稲田大学文学部仏文科卒
広告プロダクション勤務、
フリーランスコピーライターを経て、
1984年「女性の生活研究室」を設立。
現在「國分生活研究室」代表。
著書に「思いやりの歳時記」(学陽書房)
「山村留学と生きる力」(教育評論社)
「いま、子どもになにをしてやれるか」(汐文社)がある。